〇 大衆演劇についての雑感
☆ 他の演劇と極めて異なるところはどこなのか?
大衆演劇は知る人にはあたりまえだが、座員の生活共同体である。
劇団が生活を共にする場であり家族・疑似家族で成り立つ。
これは大きな特色だ。公演場所も日本全国である。集団生活しながら旅し公演する。
旅する劇団が旅芝居・大衆演劇なのだ。
濃厚なファンになると初日に劇団を迎え、千秋楽には別れを惜しみ役者を見送る。
そして、ファンもまた、時折、劇団を求め『遠征』と称した旅にでる。
劇団はこんなコアなファンに支えられ大きく育ち旅立つ。
役者を我が子のように、兄弟姉妹のように慈しみ、ファンは見守る。
大家族だった日本の原風景がこの旅芝居の人たちの中にはある。
ファンもまた、そこに疑似家族になったような気分に浸る独特の世界がある。
劇場においても大衆演劇は特殊だ。歌舞伎にせよ商業演劇にせよ客は日常を捨て「ハレ」を求めてやって来る。それは、さぞかし特別な日なのだ。
だが、大衆演劇は少しちがう、月に10回、20回と毎日のように足を運ぶ人が居る。
(最近は経済事情と高齢化からさすがに少なくなったが……)。
テレビ番組で言えばさしずめ「連続ドラマ」である。
通ううちに旅芝居の役者達の生活が肌感覚を刺激するようになってくる。
漆器で云えば重ねて重ねて色を塗り、次第に光沢が増してくるような世界なのだ。
講談で云えば「続き読み」に近い感覚だ。本日はこれまで、続きにご期待あれ…
通して見てよさがわかる。続けて見なけりゃ深さが染みてこない。
そんな世界が大衆演劇的なのだ。
「お花」という祝儀もまた、今流にいえば「クラウドファンティング」のようなものだ。
安い入場料では生業が成り立たない。
それがわかるからファンは好きな食べ物や食材まで舞台に届ける。
片田舎になれば、朝とれた野菜や魚を献上する人たちもたくさん居る。
ここに、大衆演劇が雑草の逞しさで育つ秘訣がある。
現ナマ・現金の生活感覚が大衆演劇の世界、大道芸は今でも投げ銭(カンパ)がいきている。
くらしとつながっているのだ。
今の政治家たちは大衆演劇から大衆のこころを学ばなければならない。
私は大阪生まれだが維新は余り好きではない。だが、……
吉村知事も人気相乗りの吉本なんば花月より、オーエス劇場、木川劇場に足を運び舞台にあがるなら支持にまわってもよいぐらいの気持ちだ。だが、損得勘定で動く人にはそれはわからない。
まぁ、大衆演劇でよくやる「天地会」の発想だ。
世の上に立つ人は下座(しもざ)から見上げる立場に立って考えてほしい。
ゼレンスキー大統領や岸田総理も梅南座や鈴成り座、浪速クラブ、千成座にくれば、きっと、ちがったものが見えてくるだろう。あほらしくて戦争なんかやってられなくなるに違いない。
ともかく、大衆演劇にはいろんな時代を生きてきたエネルギーがぎっしり秘められている。
役者さんがファンの手に届かなくなるとそれはもう「大衆演劇」の仁義に外れる。
これは、あくまで、私流のひとつの見方である。
異論や当事者の方々の思いとは異なるやもしらないことを恐れず書き連ねてみた。
では、まとめてみよう。
大衆演劇は生活に根ざした芸能ジャンル・演劇だ。
形式張らず時代に合わせ、時に時代を批判し庶民の心を発信してくれる。
そして、今日では類例をみない希有な「ふれあえる芸能」だ。
役者が客を気遣い、客が役者を身内に感じるけったいな世界である。
『しばらく、みーへんけど元気やった~』そんな声が聞こえてくる芸能はない。
テレビもYouTubeも語りかけてはくれない。よって舞台がすべてだ。
この沼に一度、足を突っ込むとなかなか抜け出せなくなる魅力の罠がある。
自信がない人は近寄らない方が身のためだ。
そんな大衆演劇の世界にも時代とともにようやく変化の兆しがあらわれてきた。
次回はいつになるかわからないがそんな事などを書いてみたい。
本日はこれにて読みきり。