紀州屋良五郎の大衆演劇・上方芸能 通信

大衆演劇については全国の劇場や公演場所に出かけ、その地での公演の所感・演出効果・劇団の印象を綴ります。さらに大道芸や上方落語、講談、音頭、漫才、見世物、大道芸、放浪芸、映画評についても思いつくままに書き留めてまいります。 末永くのおつきあいをよろしくお願いいたします。

▩フィクション ある日の大衆演劇の舞台

◯ 夢で見たある日の観劇

 

◯ 完全にフィクションです

 

劇団X 賀美座かな…

劇団Y 長谷川武弥劇団かな…

 

劇場X 浪速クラブかな…

劇場Y 鈴成り座かな…

 

第一部 芝居 昼 『しじみ売り』

       夜 『新版おんな橋 堀江事件』

 

口上挨拶

・開口一番 大衆演劇とハンチョウ

        劇団員紹介

 

ゲストコーナー 『人間ジュークボック』 出演・タカパーチ

 

https://www.youtube.com/watch?v=AAtMsOO4L7k

 

 

第二部  舞踊・歌謡ショー

 

ラストショー 昼 うっせえわ

ラストショー 夜 ブッダのように私は死んだ

 

 

しじみ売り・あらすじ】

 

参考 桂ざこば 落語

 

https://www.youtube.com/watch?v=G5OmbI64ElU

 

茅場町の魚屋和泉屋次郎吉親分は、裏では御存じ義賊の鼠小僧次郎吉。ある年の暮の大雪の日、博打で三百両負けて舟で帰ろうと、新橋の汐留のなじみの船宿伊豆屋で雪見酒で一杯やっていると、年の頃十ばかりの男の子が汚い手拭で頬っかむりして素足に草鞋(わらじ)ばきで、「しじみぃ~、え~、しじみよぉ~」と売りに来た。

 

 世間の風は雪よりも冷たく、誰も買ってくれず全部売れ残っている。次郎吉は全部買ってやり、汐留川に放させた。子どもに話を聞くと、母親と患っている二十三の姉の三人暮らし。姉はもと新橋の金春新道紀伊国屋の小春という売れっ子芸者で、三田の紙問屋の若旦那の庄之助といい仲になったが、庄之助は勘当され小春の家で一緒に暮らしたが、小春の人気もなくなり二人は旅芸者になって江戸を離れた。

 

 箱根の湯治場の亀屋で庄之助がイカサマ賭け碁ですってんてんに巻き上げられて、小春が賭け金のカタに取られるところ、隣の部屋から二十五、六の苦み走った親分風の男が現れ、同じ江戸の者だからと賭け金百両を立て替え、チョボイチでイカサマ師たちからその金を奪い返し、五十両を二人の路銀にと与えた。

 

 その金は御金蔵やぶり小判で、駿府城下での宿の支払いの時に見破られ、庄之助は捕らえられ伝馬町に送られた。小春は心労が重なり病の床についてしまった。そのためあたしがしじみを売っているという。

 

 身に覚えのある次郎吉、かけた情けが仇になったと知り愕然とする。子どもに五両を持たせ、姉さんに庄之助のことは何とかすると伝えろと言って折り詰を持たせて帰し、空荷でも「お~ぃ、しじみよ~ぉ」と雪の中を帰って行く子どもを見送る。

 

 次郎吉は子分を身代り自首させて庄之助を牢から出した。勘当が許され庄之助は晴れて小春と夫婦になって、子どもと母親を引き取り仲良く暮らした。

 

 

 

【新版おんな橋 妻吉の無念】

 

堀江六人斬り事件(ほりえろくにんぎりじけん)は1905年明治38年)6月22日未明、大阪堀江遊郭の貸座敷「山梅楼」(やまうめろう)の主人・中川萬次郎が発狂の末に一家6人を殺傷した事件である。5人が死亡、1人に重傷を負わせ、自身は自殺を図ったが死に切れず警察へ自首した[1]

 

時は日露戦争真っ只中、ついひと月前に日本海海戦で劇的な勝利、国中が戦勝ムードにみなぎる中で起きた事件は大阪中に衝撃を与えた。なお、この事件で両腕を切断されながらも生存した芸妓・妻吉は紆余曲折のすえに高野山で出家し、名を大石順教と改め、半生を障害者の福祉に捧げた。

 

原作は藤本義一作 女橋

 

参考

https://www.youtube.com/watch?v=GmGAWOMKfrg

 

https://www.youtube.com/watch?v=VDsZIcZM4ak