紀州屋良五郎の大衆演劇・上方芸能 通信

大衆演劇については全国の劇場や公演場所に出かけ、その地での公演の所感・演出効果・劇団の印象を綴ります。さらに大道芸や上方落語、講談、音頭、漫才、見世物、大道芸、放浪芸、映画評についても思いつくままに書き留めてまいります。 末永くのおつきあいをよろしくお願いいたします。

▩ 世直しを大衆演劇に学べ 澤村神龍 オーエス劇場 2021/07/02

〇見てもろておおきに〜まいどおなじみの観劇メモでおます

頑張れ劇団神龍、応援している!

 

 劇団神龍の強みは強力なファンと座長

の脇を固める役者のレベル。

 早乙女紫虎が参加

 客席では禁酒と張り紙

 

メンバー

座長  澤村神龍

副座長  澤村大和

澤村龍馬

澤村颯

澤村龍心

澤村冬華

澤村秋華

澤村春音

澤村武尊

音羽三美

成駒・中村駒二郎

子役  ミニ龍

特別参加  座長・早乙女紫虎

 

☆ コロナ短縮で時短2部構成

 

 芝居「源助地蔵」

〈キャスト〉

澤村神龍‥植木職人の源助

澤村冬華‥女房おさと

早乙女紫虎‥壇那の壇那

澤村大和‥侍

澤村龍馬‥侍

中村駒二郎‥松平源之進

音羽三美‥長屋の女房

ほか

 

<あらすじ>

 

このお芝居は、島根県に伝わる実話を元に作られたものだ

 

☆ 

 

 堤防工事を請け負った侍と、その家に出入りする植木職人・源助の物語である。

 

源助には女房との間に第一子・源太郎が生まれたばかり、長屋の一同が集まってお祝いをしている。赤ん坊を皆で抱き回す風情が微笑ましい。

 

皆が帰った後、源助が、浮かない顔で帰宅する。御主人の様子が、いつもと変わって沈み込んでいると察知した女房。何もなければよいがと話し合った。

えとを聞かれたと怪訝な顔をする源助。

後、奥に引っ込んで食事となった。

 

そこにやってきたのが奉公先の侍。足取りも重かったが、意を決して源吉宅の戸を叩く。応対に出た女房とは旧知の間柄と見え、親しく言葉を交わし合う。

 

やがて、話がすすみ、侍が云うには堤防工事が相次ぐ事故で順調に進まない。祈祷師に見てもらうと、子年、子の刻の人柱を立てることが必要とのこと。当藩には子年の侍は皆無、ついては、子年のおまえにぜひとも人柱になってもらいたいと頼まれる。

 

聞いた源助は仰天し、私には女房と生まれたばかりの子どもがおります。そればかりはご勘弁と断る。

 

そうであろうな。では、私はこの場で腹を切るという侍を前にしては、どうしても断り切ることができなかってしまうのであった。

 

ギリと恩の為に命を捨てるとは考えたらむちゃくちゃな話や‥しかし、そんな時代があったのだ。ふと思い出した。弟の命を救う為、兄が臓器提供を願い出て、のち亡くなった知人がいたことを

 

 

かくて、恋しい女房、子どもと別れ、御主人のために人柱となって死んでいく意を決する源助。

 

これより、屋敷へ参り21日間身を清めたそののちに

神に身を捧げることに相成った。

 

狂気の中に入った源助の姿、最後の力を振り絞って見物人に話す源助、神龍神座長の渾身の演技が冴える。

 

 

あらすじは単純な芝居だが、善良な市井の職人が犠牲になるという不条理さが鮮やかに描かれている。

現代ではありようのない話ながらなぜか胸に響く。

 

役者一人一人の心優しき「ぬくもり」が、その悲しい景色をいっそう際だたせる、超一級品の人情芝居に仕上がっていた、と私は思う。  

 

★ 

 

この「源助地蔵」で、益々発展する結成4年目の劇団神龍の逞しさを感じ取ることができた。

 

参考

 

松江大橋と源助

松江の市街地は宍道湖と中海を結ぶ大橋川で南北に分かれており、「松江大橋」はその大橋川に架かる橋で、小泉八雲の「知られざる日本の面影」をはじめとして数多くの書籍で紹介されて、松江を代表する名所の一つになっています。

橋の長さは約130mで、御影石でできた欄干は20個の擬宝珠(ぎぼし)で飾られ、橋の中程には夜になると点灯される4つの灯篭がある風情のある橋です。

江戸時代初期までは大橋川には「カラカラ橋」と呼ばれた人がやっと通れる竹の橋が一本あるだけでしたが、松江開府にあたり、松江城築城のための馬や物資を運ぶ荷車が通れる強固な橋の建設が堀尾吉晴公より命じられました。

この橋の建設工事は洪水などで難渋を極めたため、川の神の怒りを静めるために、マチの無い袴(横縞の継ぎをした袴という説もある)をはいて、その日の朝一番に「カラカラ橋」を渡る男を人柱とすることになり、橋とは何の関係も無い足軽の源助がたまたまその服装で橋を渡ったために捕らえられ、人柱として生きたまま橋脚の下に埋められました。

このような経過を経て橋は慶長13年(1608年)に完成し、これが初代の松江大橋とされています。

その後も洪水や事故のため、何度も橋の架け替えが繰り返され、現在の橋は17代目の橋で、昭和12年(1937年)に完成したものです。

 

松江大橋の南詰めの「源助公園」には、橋の建設での尊い犠牲者を供養する2つの石碑があります。

一つは人柱となった源助の碑で、もう一つは現在の橋の建設中、落下した鋼鉄製のバケットで頭を打って亡くなった深田清技師の碑です。

深田技師が事故にあったのが、源助が埋められたとされる橋脚の側であったため、当時の新聞に「痛ましい昭和の源助」と報じられたそうです。

大橋近くのスティックビルの筋向かいにある龍覚寺には、源助の木像と石の源助地蔵が祀られており、源助地蔵は毎年8月の地蔵盆に「源助公園」に移されて地元の人の手で供養されています。

現在大橋川は洪水対策として、松江大橋付近の川幅拡張と護岸の嵩上げが計画されており、この計画が実現すると松江大橋は18代目として架け替えられることになります

 

 

〇舞台口上 (座長 澤村神龍 )

 

・前売り券&グッズ販売

 

・ゲスト出演案内

 

 

〇花の舞踊絵巻 

 

ラストステージ‥KANPAI

 

【画像】

澤村に流れる情念の芝居見応えある劇団神龍紀州屋良五郎