紀州屋良五郎の大衆演劇・上方芸能 通信

大衆演劇については全国の劇場や公演場所に出かけ、その地での公演の所感・演出効果・劇団の印象を綴ります。さらに大道芸や上方落語、講談、音頭、漫才、見世物、大道芸、放浪芸、映画評についても思いつくままに書き留めてまいります。 末永くのおつきあいをよろしくお願いいたします。

▩ 映画『せかいのおきく』を見た

阪本順治監督の『せかいのおきく』を見た。最終章は感動の涙につつまれた。

 

 
〇 予告編  〇

 

 

STORY

江戸の寺子屋で子供たちに読み書きを教えるおきく(黒木華)は、厠(かわや)のひさしの下で雨宿りをしていた紙くず拾いの中次(寛一郎)と下肥買いの矢亮(池松壮亮)に出会う。おきくは武家の育ちだったが貧乏長屋で暮らしていた。3人は親しくなっていくが、ある日、事件に巻き込まれたおきくは、のどを切られ、声を失ってしまう。

 

つらく厳しい現実にくじけそうになりながら、それでも心を通わせることを諦めない若者たちを描く『せかいのおきく』。日々を生きる喜びと輝きを感じ、人と人のぬくもりに ...

キャスト

黒木華寛一郎池松壮亮、眞木蔵人、佐藤浩市石橋蓮司

スタッフ

脚本・監督:阪本順治
製作:近藤純代
企画・プロデューサー:原田満生
音楽:安川午朗
音楽プロデューサー:津島玄一
撮影:笠松則通
照明:杉本崇
録音:志満順一
美術:原田満生
美術プロデューサー:堀明元紀
装飾:極並浩史
小道具:井上充
編集:早野亮
VFX:西尾健太郎
衣装:大塚満
床山・メイク:山下みどり
結髪:松浦真理
マリン統括ディレクター:中村勝
助監督:小野寺昭
ラインプロデューサー:松田憲一良
バイオエコノミー監修:藤島義之、五十嵐圭日子

上映時間
90分

〇 わたしのみたまま、かんじたまま 〇

 

まず、タイトルにおどろいた。モノクロの時代劇映画なのにいきなり、せかいのおきくとは…なんだこりゃと思わせる。つかみは最高だ。時代劇とはいっても殺陣がからむシーンはない。極貧の長屋の物語である。

 

仕事は人の糞尿を回収して収益を得る仕事に汗を流す若者と長屋に暮らすかわいい武家娘の恋愛を描いたちょっとアクの強いラブストーリーである。

 

この汚穢屋という仕事は昭和の三十年代まで続く歴史ある商売である。日本がまだくみ取り式の便所を使っていた頃(都市に下水道が配備される以前)、人の糞尿を回収し農家に売る仕事があった。のちに、タンクローリーの回収、いわいるバキュームカーに変わりはするが存在した。

 

循環型農業が残っていた健全な時代までは。こういう、リサイクル業はほかにもいくつもあった。靴の再生を受け持つ靴職人、河川に埋没した廃品を回収する仕事、大阪は『がたろ商』といった。おかしなものが混じった外国産の肥料などを使うよりはるかにリサイクルで、省エネ再利用であり高価値とおもうのだが時代は押し流していった。

 

職業に差別はないという人が居るがそれは嘘だ。牛を捌く食肉解体の仕事は蔑まれ日本の部落問題の根源となった。おなじように、この映画の汚穢屋の若者達も人のさげすみの中で喰うためにけなげに生きる。その業がなければ口に入るものは作れないことはしりつつも「汚れ」「臭い」「過重労働」ゆえさげすまれていた。

 

もちろん、学校や学問には縁遠い若者達、耳で世間を知り、形で字を修徳していった。

それは放浪芸人、芸者、昭和初期の芸人、性風俗に携わるもの、旅役者たちもみな同様だった。

 

好きになった人に伝えるために覚えた「せかい」ということば。 

それは見たこともないところに拡がる大地であり、最も大きな、大空のような意味である。

そのぐらいすきだと云うためにときに「せかいのおきく」と告白した。まさに、これは詩だ。

声をうしなってはじめて「書」「文字」を教えるほんとうの意味を見いだした武家の娘おきく。

 

人を愛したときにどう伝えるかを知った若者と障害を乗り越え生きる娘を描いた希有なラブロマンスの時代劇なのだ。見る人により、感動する部分は違うにせよ私たちがつくり上げてきたもの、うしなったもの、戻るべきものが見えてくる。そんな、素晴らしい映画だ。そして、令和の今が歴史の分岐点だと私は確信を深めた。

 

ある思想家が言った。「人間は所詮人糞製造機、知恵がなければ糞袋」ことばは過激だが才能ある畜生それが人間。つまらないことで優越に浸り、序列をつくり支配し人の上に人を作る。そんな世の中、糞食らえと立ち上がる元気な若者が育つ日本になってくれと願わずにおれない。この映画はどんな教科書より教育的だ。